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3年間続けられた理由

3年間続けられた理由

12月21日月曜日。カンスポでの3年間が終わりを告げた。最後の1年は、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、納得のいく最終年とはならなかったが、改めて自分たちの活動が貴重な経験なのだと気づいた年にもなった。

小学校は6年間少年野球を、中学高校時代はバスケットボールを経験。大学に入学してからは、これまでの自分で行うスポーツから違った視点でスポーツと関わりたいと思い、カンスポに入部を決めた。この3年間は常に新鮮な気持ちの連続だった。一眼レフカメラの操作、全くルールも知らない競技の取材、そして記事を書くこと。これまでの人生では馴染みのなかったことにも多く取り組んだ。正直今振り返ると、しんどいことやつらいことの方が多かった。ではなぜ続けられたのか、それは人とのつながりがあったからだ。

高校までの自分は飽き性で、何をやっても続かず、すべて中途半端。逃げ続けた人生だったと言っても過言ではない。その逃げ癖は大学に入ってからも相変わらずで、入部1年目も、周りの同期との熱量の差や、活動の過酷さに何度も辞めたいと思う日々。しかし、そんな時に支えられたのは他でもなく、熱量差を感じていた同期の存在だった。ある新聞編集期間で挫折を経験し、翌日には本気で辞めようと意思を固め、その日の帰り道に同期の中でも当時仲が良かった一人にラインを送った。すると、一言「まだ電車乗ってへん?」と返信の通知。その後直接会って話すことになり、愚痴を聞いてもらう内に悩んでいたことが馬鹿らしくなった。もしそこで、話し合っていなかったらまたも逃げる決断を取っていただろう。今の自分があるのは勝手に差を感じ、遠ざけていた同期の存在だった。

2年目には各部の担当班長を持つことになり、馴染みのない競技にも1人で取材に行くことも増えた。その一つがバレーボール部だ。1年生の間には1回も取材に行ったことのない競技で、ルールも知らない。初めての取材は不安でいっぱいだったことを今でも覚えている。だが、実際に行ってみると親切な主務、部員の方々がほぼ初心者の自分に親身に接してくれた。そのこともあり、春季リーグ戦、総合関関戦、西日本インカレと取材を重ねるにしたがって、どんどんと競技を好きになっていった。そして秋季リーグ戦、上位リーグに進出した時には自分の事のようにうれしかった。こうした競技愛を持てたことも続けるモチベーションになっていった。

そして最終年。「最後にやり切ったと思えるように」と心に決め、オフシーズンから企画の準備を行っていた矢先、新型コロナウイルスの猛威が振るった。相次ぐ大会、試合中止の連絡、しまいには活動禁止を余儀なくされた。喪失感が無かったと言えば嘘になる。スケジュール帳を見ると、取材で埋まっていた毎週末の予定が空白に。そんな手帳を見ると今までの自分たちがいかに恵まれていたのかを実感させられたのだ。土日に試合会場に足を運び、写真を撮り、選手にインタビューする。どこか当たり前に捉えていたことも、この一つ一つが貴重な経験だと気付く活動禁止期間となった。

夏から秋にかけて、徐々に大会や試合が開催されるようになり、それに伴って取材も再開した。自粛期間以前と以後で大きく取材スタイルを変えたということは無いが、春が無かった分、選手たちも自然と力が入っているのを見て取れた。その熱をいかに伝えるかを意識して臨む取材の日々に、楽しんでいる自分もいた。決して満足いく年だったとは言えないが、新たな経験もできた1年だったと振り返る。

3年間の活動はこれまでの人生の中で、最も濃いものだった。飽き性だった自分を変えるきっかけにもなったカンスポ。でも、なにより感じたのは、周りの人とのつながりがあったからこそ続けられたのだと。【北島大翔】

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